山下春江

山下春江
やました はるえ
1952年
生年月日 1901年8月9日
出生地 山口県萩市
没年月日 (1985-03-19) 1985年3月19日(83歳没)
出身校 二階堂体操塾
(現・日本女子体育大学
前職 呉高等女学校教員
大阪毎日新聞記者
富士アスベスト工業所社長
所属政党日本進歩党→)
(民主党→)
改進党→)
(新党同志会→)
自由民主党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
配偶者 夫・山下悌三

選挙区 全国区
当選回数 2回
在任期間 1962年7月8日 - 1974年7月7日

選挙区 福島県第2区
当選回数 3回
在任期間 1952年10月2日 - 1960年10月24日

日本の旗 衆議院議員
選挙区 (福島県全県区→)
福島県第2区
当選回数 2回
在任期間 1946年4月11日 - 1948年12月23日
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山下 春江(やました はるえ、1901年(明治34年)8月9日1985年(昭和60年)3月19日)は、昭和期の政治家。日本初の女性国会議員の一人で、元自由民主党衆議院議員参議院議員

生涯

山口県阿武郡の出身。

1921年二階堂体操塾(現・日本女子体育大学)を卒業(1期生)[1]。体操講習会で見た塾長・二階堂トクヨの脚が憧れのアンナ・パヴロワバレリーナ)のようにすんなりとしていたことが入塾理由である[1]柔道2段のほか、空手薙刀術の心得もあった。広島県呉高等女学校で教師となるが、当時の校長と不正入試問題で対立し辞職、大阪毎日新聞記者に転職する。その後山下悌三と結婚、病弱の夫に代わり東京で「富士アスベスト工業所」の経営にあたる。戦災で工場が焼失したため、福島県石川郡母畑村(現・石川町)に疎開した。

戦後は周囲の人々の勧めもあって、1946年第22回衆議院議員総選挙に福島全県区(当時)から日本進歩党公認で立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となった。以後衆院当選6回。進歩党では小坂善太郎川崎秀二らとともに、犬養健をリーダーとする新進会のメンバーだった。以後民主党→改進党→新党同志会→自由民主党と遍歴する。

1948年、当時の泉山三六蔵相国会内でキスを迫られ、拒否したところ顎を噛み付かれるという事件が起きた。ほどなくして泉山大臣は蔵相を辞任するが、山下議員もかねてから酒豪の評判があったことが災いし「一緒にはしゃいでいた」とのデマが流布、翌1949年の総選挙で落選の憂き目に遭う。しかし1952年の総選挙でカムバックした。同年12月、国会で大東亜戦争での戦犯者に対する免責決議の趣旨説明を行っている。その後1960年に落選したが、1962年参議院全国区から国政に返り咲き、2期12年務めた。また社会保障問題に打ち込み、厚生政務次官、経済企画政務次官を歴任した。1971年勲一等瑞宝章を受章し、1985年3月19日敗血症のため死去した。叙・従三位

脚注

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  1. ^ a b 「大学生 三代の歩み 30 女の園(八) たくましい体育教育 五輪入賞も生んだ特訓」読売新聞1969年10月28日付朝刊、9ページ

関連項目

議会
先代
野本品吉
日本の旗 参議院文教委員長
1965年 - 1966年
次代
二木謙吾
先代
佐藤洋之助
日本の旗 衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員長 次代
園田直
日本の旗 衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員長
福島県の旗 旧福島2区選出衆議院議員(1947年 - 1993年) 国会議事堂
定数5
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
第1回
(定数100)
3年議員
偶数回
第2回
(定数50)
3年議員
第4回
(定数50)
3年議員
第6回
(定数50)
3年議員
第8回
(定数50)
3年議員
第10回
(定数50)
3年議員
第12回
(定数50)
奇数回
第3回
(定数50)
3年議員
第5回
(定数50)
3年議員
第7回
(定数50)
3年議員
第9回
(定数50)
第11回
(定数50)
†:当選無効・失格など、↓:途中辞職・死去など、↑:繰上げ当選または補欠選挙で当選(合併選挙で当選した3年議員を除く)。