何夔

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何 夔(か き、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は叔龍。豫州陳郡陽夏県(現在の河南省周口市太康県)の出身。祖父は何臨。父母の名は不明。子は何曾。孫は何劭・何遵。

生涯

曾祖父の何熙は安帝時代の車騎将軍。叔父の何衡は尚書だったが、率直な発言により宦官に疎まれ、親族ともども官吏の資格を剥奪された。

父を早くに亡くしたため、母や兄と生活を共にし、孝行と兄弟仲の良さによって称賛された。身長は八尺三寸(約191cm)、慎み深く威厳のある容貌だった。

戦乱を避け淮南に至った何夔は、袁術寿春に進出すると招聘される。何夔はこれに応じなかったが、袁術によって引き止められた。また、袁術は蘄陽を攻撃・包囲した際、何夔を降伏勧告の使者として送ろうとしたが、この役目も拒んだ。

建安2年(197年)、秘密裏に袁術の下を脱し、翌年に郷里の陳郡まで戻った。その後、司空曹操に招聘され、掾属(属官)となる。曹操はしばしば掾属に杖罰を加えていたが、死んでも杖罰を受けまいと毒薬を常備していた何夔は、この被害を被らなかった[1]

地方に出て城父県令、のち長広太守となる。同地では豪族の管承が狼藉を働いていたが、何夔は使者を派遣して事の利害を説明し、服従させた。また、張遼と共に賊徒の従銭を討伐したり、反乱を起こした王営を計略でもって離散させたりした。曹操が条例を設けて州郡を縛り、税を取り立てようとすると、何夔は新設の長広郡など反発が予想される地域に対してはこれを緩めるよう進言した。

中央に召還され參丞相軍事となるが、楽安郡が海賊によって荒らされると長広統治の実績を買われ、楽安太守に就任。着任数ヶ月で賊を制圧した後、また中央に戻り、丞相東曹掾となった。

建安18年(213年)11月、魏が建国されると友人の毛玠らと共に尚書となり[2]、さらに尚書僕射に転じる。曹植の側近として権勢を振るった丁儀兄弟とは仲が悪く、それを案じた傅巽から忠告を受けた。しかし何夔は自らの態度を変えることなく、後に何夔の予測どおり、丁儀は失脚した。

建安22年(217年)、曹丕が太子となると太子少傅となる。太子太傅の涼茂が亡くなるとこれに代わった。その後、太僕に昇進。この時、曹丕から送別会の招きを受けたが、礼法に反するとして応じなかった。

黄初元年(220年)、曹丕が帝位に即くと成陽亭侯[3]に封じられ、領邑300戸を得た。病を得て退官を申し出たが、曹丕はこれを許さなかった。死去の後、靖侯とされ、子の何曾が後を継いだ。

出典

  • 『三国志』魏書 巻12 何夔伝

脚注

  1. ^ 『三国志』何夔伝注で孫盛は、小さな罪に杖罰を加える曹操と共に、毒薬でもって主君を牽制した何夔をも非難する。
  2. ^ 『三国志』魏書武帝紀の注に引く『魏氏春秋』。
  3. ^ 晋書』何曾伝では、子の何曾が継いだ爵位は陽武亭侯とする。
陳寿撰 『三国志』 に立伝されている人物および四夷
魏志
(魏書)
巻1 武帝紀
巻2 文帝紀
巻3 明帝紀
巻4 三少帝紀
巻5 后妃伝
巻6 董二袁劉伝
巻7 呂布臧洪伝
巻8 二公孫陶四張伝
巻9 諸夏侯曹伝
巻10 荀彧荀攸賈詡伝
巻11 袁張涼国田王邴管伝
巻12 崔毛徐何邢鮑司馬伝
巻13 鍾繇華歆王朗伝
巻14 程郭董劉蔣劉伝
巻15 劉司馬梁張温賈伝
巻16 任蘇杜鄭倉伝
巻17 張楽于張徐伝
巻18 二李臧文呂許典二龐
閻伝
巻19 任城陳蕭王伝
巻20 武文世王公伝
巻21 王衛二劉傅伝
巻22 桓二陳徐衛盧伝
巻23 和常楊杜趙裴伝
巻24 韓崔高孫王伝
巻25 辛毗楊阜高堂隆伝
巻26 満田牽郭伝
巻27 徐胡二王伝
巻28 王毌丘諸葛鄧鍾伝
巻29 方技伝
巻30 烏丸鮮卑東夷伝

(蜀書)
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巻32 先主伝
巻33 後主伝
巻34 二主妃子伝
巻35 諸葛亮伝
巻36 関張馬黄趙伝
巻37 龐統法正伝
巻38 許糜孫簡伊秦伝
巻39 董劉馬陳董呂伝
巻40 劉彭廖李劉魏楊伝
巻41 霍王向張楊費伝
巻42 杜周杜許孟来尹李譙
郤伝
巻43 黄李呂馬王張伝
巻44 蔣琬費禕姜維伝
巻45 鄧張宗楊伝
呉志
(呉書)
巻46 孫破虜討逆伝
巻47 呉主伝
巻48 三嗣主伝
巻49 劉繇太史慈士燮伝
巻50 妃嬪伝
巻51 宗室伝
巻52 張顧諸葛歩伝
巻53 張厳程闞薛伝
巻54 周瑜魯粛呂蒙伝
巻55 程黄韓蔣周陳董甘淩
徐潘丁伝
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巻57 虞陸張駱陸吾朱伝
巻58 陸遜伝
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巻60 賀全呂周鍾離伝
巻61 潘濬陸凱伝
巻62 是儀胡綜伝
巻63 呉範劉惇趙達伝
巻64 諸葛滕二孫濮陽伝
巻65 王楼賀韋華伝