大久保忠教

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曖昧さ回避 旗本・大名の「大久保忠高」とは別人です。
 
凡例
大久保 忠教
大久保忠教
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年(1560年
死没 寛永16年2月29日(1639年4月2日
改名 平助(幼名)、忠雄、忠教
別名 彦左衛門尉(通称)
戒名 了真院殿日清
墓所 長福寺(愛知県岡崎市
本禅寺京都市上京区
立行寺東京都港区)
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康徳川秀忠徳川家光
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠員、母:小坂氏
兄弟 忠世忠佐忠包忠寄忠核忠為、忠長、忠教忠元
正室:馬場信成養女
女子(山本与九郎某の妻)、忠名、忠職、包教、政雄、女子(佐脇安雅の妻)、女子(天野正吉の妻)ほか
養子:女子(大久保忠員の十男・九郎右衞門某の娘、堺野宗尚の妻)
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大久保 忠教(おおくぼ ただたか[1])は、戦国時代から江戸時代前期の武将江戸幕府旗本通称は彦左衛門尉[1]。はじめ、忠雄と名乗った[2]。子に大久保忠名、大久保包教、大久保政雄らがいる。妻は馬場信成の養女[3]。『三河物語』の著者としても知られる[4][1]

生涯

大久保忠教の菩提寺である長福寺(愛知県岡崎市
「大久保忠教墓」の史跡記念碑
東京白金智光山立行寺

永禄3年(1560年)、徳川氏の家臣・大久保忠員の八男として三河国上和田(愛知県岡崎市上和田町)にて誕生。母は、側室・小坂氏[5]。幼名は平助。忠世忠佐、忠長は異母兄[5]

三河国の戦国大名徳川家康に仕え、天正4年(1576年)、兄・忠世と共に遠江侵攻に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、兄たちの旗下で各地を転戦し、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄された。また、兄・忠世は家康の命令で真田氏の隣国で幼くして家督を継いでいた依田康国の監視を務めていたが、天正13年11月に石川数正出奔を受けて浜松城にいた忠世の代理として忠教が康国の小諸城に入り監視を続けている[6]

天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥・忠隣相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し第二次上田合戦にて再び翻弄された。

戦後、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していたが、忠佐の嫡子・忠兼が早世したため、弟の忠教を養子として迎えて跡を継がせようとしていた。これに対し忠教は「自分の勲功はない」と申し出を固辞したため、忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。

続けて本家の忠隣が江戸幕府内の政争に敗れ失脚、改易となると、それに連座して忠教も改易された。しかし家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田(愛知県額田郡幸田町坂崎)に1000石を拝領し坂崎陣屋(大久保陣屋)を構えて復帰した。

慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後、2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。寛永元年(1624年)、三河国額田郡内で1000石を加増されている[7]。寛永12年(1635年)ごろから徳川家と大久保家の顕彰の為、常陸国鹿嶋(茨城県鹿嶋市)に300石ほどの地を移し『三河物語』の執筆を進めたとされる。

死の間際に家光と幕閣より5000石の加増を打診されたが、幕府創立の功臣である大久保家への数々の冷遇を忘れることはなく「不要」と固辞したと伝えられている。

寛永16年(1639年)、死去。享年80。法名は了真院殿日清。墓所は海雲山弘誓院長福寺(現・愛知県岡崎市竜泉寺町[8]京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)。東京白金台にある八芳園は大久保忠教の屋敷の跡地である。

人物

ウィキソースに三河物語の原文「我等共の因果は此因果なり。さて又信長などの因果はたちまちにむくはせ給ふ。其をいかにと申に、みのゝくに岩もろの城にて甲州衆を攻おとさせ給ひ、二の丸へ押入堄をゆひて、ことくやきころし給ふ。其後甲州へ乱入給ひし時、ゑりん寺の智識達其外の出家達を鐘楼堂へおひ上て、火を付てことくやきころし給ふ。比は三月の事成に、其年の六月二日にはあけち日向守べつしんして、二条本能寺にてやきころされ給ふは、因果は早くむくいたるかと見えたり。さて又太閤の関白殿御べつしんとて腹を切せ奉りて、御手かけ衆を三十人斗、何れもれきの衆の娘達を、三条磧へ引出して頭を切て、一ツあなへ取入て畜生塚と名付て、三条につかを築給ふ事も因果、又三七殿は信長の御子なれば、太閤のためには主にて有物を、ぬまの内海にて御腹を切せ給ふ事も因果なり。昔は長田今は太閤なり。又家康様へ毒をまいらせんと被成けるに、座敷にて御しき代を被成て、御座敷が大和大納言の、上座より下座へ御さがり被成候故に、其御膳が大和大納言にすわりて、太閤の舎弟の大和大納言まゐりて死給ふ。是と申も相国様御じひにて御正直故に、天道の御恵深くして不被参、大和大納言の参りたるも因果なり」があります。

若年の頃より書を読み、慶長14年(1609年)、50歳のときには、『源氏画巻物』12巻を書写した[1]

講談・講釈の中の忠教

たらいに乗って登城する大久保彦左衛門(月岡芳年画)
  • 俗に「天下のご意見番」として名高い忠教であるが、旗本以下の輿が禁止された際に「大だらい」に乗って登城し、将軍・家光にことあるごとに諫言したなどの逸話は後世の講談や講釈の中での創作である。これは徳川専制の世に当時の体制に不満を持っていた武功派の武士たちに支持され、いわばヒーローとして祭り上げられた結果ともいえる。
  • 忠教自身、自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実ではあるらしい。
  • いわゆる講談や講釈で知られるようになった「大久保彦左衛門と一心太助の物語」は鶴屋南北の弟子・河竹黙阿弥が書いた歌舞伎芝居に脚色してからである。
  • なお、鳶ヶ巣砦の攻撃を忠教の初陣としているのも講談での脚色の可能性が高い。

登場作品

大久保彦左衛門を題材とした作品
その他の作品

脚注

  1. ^ a b c d 新編岡崎市史編集委員会 1989, p. 1036.
  2. ^ 続群書類従完成会 1965, p. 22.
  3. ^ 続群書類従完成会 1965, p. 23.
  4. ^ “大久保彦左衛門(上)庶民のヒーローは虚像…徳川武将が自ら執筆「三河物語」 主従関係“理想”描く”. 産経ニュース (2015年4月6日). 2020年7月21日閲覧。
  5. ^ a b 新編岡崎市史編集委員会 1989, p. 1043.
  6. ^ 鈴木将典「依田松平氏の信濃佐久郡支配」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-012-9
  7. ^ 新編岡崎市史編集委員会 1989, p. 696.
  8. ^ “長福寺”. 岡崎おでかけナビ. 一般社団法人 岡崎市観光協会. 2023年3月17日閲覧。

参考文献

関連項目

  • 大久保氏
  • 幸田町 - 忠教をゆかりの人物として掲げ、毎年7月末に「彦左まつり」と呼ばれる歩行者天国の祭りを開催している。
  • 大久保彦左衛門 (テレビドラマ)
  • 超伝合体ゴッドヒコザ - 忠教ゆかりの地である愛知県額田郡幸田町を舞台にした、河崎実監督のSF特撮映画。主人公・大久保忠雄(演:八神蓮)の先祖が大久保彦左衛門忠教と言う設定が為されている。

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、大久保忠教に関連するカテゴリがあります。
  • 大久保氏系譜
  • 大久保忠教の墓『歴史写真. 大正10年2月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 市指定:史跡 大久保忠教墓 大久保忠員墓 宇津忠茂墓 - 岡崎市


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