大久保忠核

大久保 忠核(おおくぼ ただざね、天文20年(1551年) - 天正2年4月6日(1574年4月26日))は、戦国時代の武将。通称勘七郎忠正とも。

略歴

大久保忠員の子で、母は不祥。元亀3年(1572年一言坂の戦いでは鉄砲を放って敵を打倒し活躍した [1]

天正2年(1574年)4月6日、徳川家康遠江国乾城を攻め、兵を引き返した際、敵陣に残って奮戦し討死した[2]。享年24。法名乗真。

参考文献

  • 『通俗日本全史第9巻』(早稲田大学出版部、1913年、254p)
  • 『寛政重修諸家譜第4輯』(国民図書、1923年、794p)

脚注

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