紀元前306年

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紀元前306年(きげんぜん306ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「トレムルスとアルウィナが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元448年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世初期以降、この年は紀元前306年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

キプロス

シリア

  • アンティゴノス1世は自身を小アジア及びシリア東部の王と称し、アンティゴノス朝を開始した。アンティゴノス1世はデメトリオス1世を王として指名し、共同統治を行った。

シチリア

  • シラクサカルタゴの間で和平の合意が成立した。これにより、シチリアのカルタゴ軍はプラタニ川西岸に制限された。この合意により、シラクサの僭主アガトクレスの支配が強まった。

エジプト

  • アンティゴノス1世は、キプロス島での勝利に続いて、大軍を率いてエジプトを侵攻したが、プトレマイオス1世は前線を守り切った。しかしこの出来事は、プトレマイオス1世にもはや海外を侵攻する力はないことを示した。

トラキア

中国

  • の昭襄王が向寿に宜陽へと進駐させ、樗里疾甘茂に魏の皮氏を攻撃するよう命じた。
  • 秦の甘茂が韓に武遂を返還するよう昭襄王に勧め、向寿と公孫奭がこれに反対したが、昭襄王は甘茂の意見を採用した。
  • 秦の甘茂は向寿や公孫奭らの讒言を受けて不安を抱き、魏の蒲阪を攻撃する計画を取りやめて、亡命した。樗里疾が魏と講和して撤兵すると、甘茂はに逃れた。
  • 趙の武霊王中山国を攻撃し、甯葭に達した。さらに西方の胡地を攻略し、楡中に達した。
  • 林胡王が趙の武霊王に馬を献上した。
  • 趙の武霊王が遠征から帰国すると、楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に派遣した。武霊王は代の宰相の趙固が掌握している胡兵を呼び寄せた。
  • 楚の懐王が斉や韓と同盟を結んだ。

誕生

「Category:紀元前306年生」も参照

死去

「Category:紀元前306年没」も参照

脚注

注釈

出典

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関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前306年に関連するカテゴリがあります。
紀元前4世紀の十年紀と各年
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