小川三千三

小川三千三

小川 三千三(おがわ みちぞう、1863年3月29日文久3年2月11日)[1] - 1899年明治32年)5月12日)は、日本の明治期弁護士政治家東京市会議員、日本橋区会議長。

略歴

1863年3月29日(文久3年2月11日)、江戸日本橋馬喰町郡代に生まれる。海保竹渓に漢学を学び、1875年(明治8年)に東京外語学校(現・東京外国語大学)に入り、英語を修学、大学予備門を経て、1877年(明治10年)に東京大学医学部に入る。しかし、我医を以って名を成すに足らずと大学を退き、1880年(明治13年)に東京法学校(現・法政大学)に入り、フランス法学を修める。1882年(明治15年)に立憲改進党に入党し、1884年(明治17年)に代言人試験に合格する。

秩父事件では高梨哲四郎らとともに高岸善作らの弁護に当たり、静岡事件で清水綱義らを弁護、大阪事件で舘野芳之助の弁護人となる。1891年(明治24年)に東京市会議員に選ばれ、1892年(明治25年)に日本橋区会議長に就任する。1899年(明治32年)5月12日に死去、享年37。

人物

『今日都下三百名に近き代言人中最も春秋に富み才、弁、貌の三者を兼備し、声誉嘖々として世上になり』と若年ながら代言人として名をはせる。また、法学校においても、杉山誠一郎(のち代言人)、守屋此助(のち衆議院議員)、世古祐次郎(のち京城控訴院検事長)らと並び校中の秀才であった。

著書

  • 『売買法要義』(1884)

脚注

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plusでは1864年元治元年)生まれとする。

参考

  • 『日本弁護士高評伝』(誠協堂、1891)
  • 『百家高評伝 第1編』(文寿堂書林等、1895)
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