北勝太郎

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北 勝太郎
きた かつたろう
生年月日 1889年9月14日
出生地 日本の旗 日本 石川県能美郡御幸村
没年月日 (1963-02-21) 1963年2月21日(73歳没)
出身校 空知農業高校卒業
所属政党日本協同党→)
協同民主党→)
国民協同党→)
(日本農民党→)
無所属

選挙区 (北海道第4区→)
北海道第1区
当選回数 4回
在任期間 1936年 - 1947年

選挙区 北海道選挙区
当選回数 1回
在任期間 1953年 - 1959年
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北 勝太郎(きた かつたろう、1889年明治22年)9月14日[1] - 1963年昭和38年)2月21日)は、日本政治家衆議院議員(4期)・参議院議員(1期)。奈井江村初代村長。

経歴

石川県能美郡御幸村(現・小松市)出身。1894年、一家で砂川町奈井江に入植。1911年空知農業学校卒業。卒業後は、家業の農業に従事。1915年大日本帝国陸軍に入営。少尉任官。砂川農村会長・奈井江産業組合長・奈井江水利組合長を兼任。1919年砂川町議会議員に当選。1920年保証責任北海道信用購買販売組合聯合会(北聯、のちのホクレン理事および砂川農会会長。1924年大日本帝国陸軍中尉任官、同年北海道議会議員に当選し、以後連続3期務めた。1931年空知郡農会会長を3期務める。

1936年第19回衆議院議員総選挙に、北海道4区から立候補し初当選した。日本農民党に所属。以後連続4期衆議院議員を務めた。1944年奈井江村初代村長を経て、終戦後は日本協同党を経て協同民主党に所属。党内の「農村派」の代表格として副委員長を務めたが、山本実彦三木武夫を入党させて党勢拡大を図ろうとしたことに、弟の北政清とともに反発。結局押し切られるかたちで三木は入党したが、さらに日本民主党準備会の院内会派新政会との合同にも強く反対し、党から除名処分を下される。

その後公職追放の対象となる。追放解除後は、北海道農業委員会委員長を経て、1953年北海道選挙区より第3回参議院議員通常選挙に無所属で出馬、当選し1期務めた。

政界引退後、1955年より奈井江町農業協同組合(現・JA新すながわ)組合長を務めた(1959年まで)。1960年2月8日には奈井江町名誉町民に選ばれる。1963年2月21日に逝去。町葬が営まれた[2]

叙勲・受賞歴[3]

エピソード[3]

  • 農業界出身なだけに協同組合第一主義者であり、農民代表の立場から国会議員として活動し、北海道開発に尽力。農業界の指導力は抜群であったとされ、空知においては「農業の北(勝太郎)」と呼ばれた。協同組合主義へのプライドは相当なものであっただけに、協同組合との関係をほぼ持たない三木武夫の協同民主党入党には激しく反発した。
  • 1958年に奈井江町農協に胸像が建立された。
  • 砂川町から奈井江村を分村することに尽力。奈井江村初代村長に選任された。

家族

弟は北海道会議員、衆議院議員を務めた北政清

長男は31歳で夭折した元衆議院議員の北二郎。次男は元北海道開発庁長官北修二。三男は元奈井江町長の北良治

脚注

  1. ^ 衆議院『第七十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1936年、34頁。
  2. ^ 以上につき、『奈井江町百年史 上巻 通史編』奈井江町、1990年、251-252頁。
  3. ^ a b 『奈井江町百年史 上巻 通史編』奈井江町、1990年、251頁。

参考文献

  • 髙木正夫『北海道建設人物事典』北海道建設新聞社、2008年、114頁
  • 『歴代国会議員名鑑 中巻』議会制度研究会、1995年、1852頁・2153頁
第1回
(定数8)
3年議員
偶数回
定数4
第2回
第4回
第6回
第8回
第10回
第12回
第14回
第16回
定数2
第18回
第20回
第22回
定数3
第24回
第26回
奇数回
定数4
第3回
第5回
第7回
第9回
第11回
第13回
第15回
定数2
第17回
第19回
第21回
第23回
定数3
第25回
↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。
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