伊木忠順

伊木忠順の墓

伊木 忠順(いぎ ただゆき / ただより、寛政10年11月25日(1798年12月31日) - 文化12年6月24日(1815年7月30日))は、岡山藩筆頭家老伊木家11代当主。通称は豊後。主君は池田斉政

生涯

忠順は岡山藩家老・土倉家の一族、菅家の出身で、7代当主・伊木忠知の七男で菅家の養子となった実寧の子である。岡山城下で生まれた。幼名は庸之介。

文化5年(1808年)1月、10代忠識が嗣子なく59歳で没したため、庸之介は一旦、家老の土倉一之の四男となり、その後に忠識の養子として11歳(数え年)で伊木家の家督を継いだ。

文政12年(1815年)6月24日、病没した。享年18。公式には6月27日に23歳で没したと発表された。分家の伊木忠孰(ただあつ)の三男が養子として迎えられ、12代忠直として家督を継いだ。

法名は高嶽院殿前豊州徳有芳隣大居士。墓所は伊木家千力山墓所(岡山県瀬戸内市)。

参考文献

  • 『茶人伊木三猿斎』 桂又三郎/著 奥山書店、1976年
  • 『備前藩筆頭家老伊木氏と虫明』 邑久町郷土史クラブ/編 1996年
橘紋伊木家第11代当主(1808年 - 1815年)

忠次 - 忠繁 - 忠貞 - 忠親 - 忠義 - 忠興 - 忠知 - 忠福 - 忠真 - 忠識 - 忠順 - 忠直 - 忠正 - 忠澄 - 忠恭 - 忠善 - 忠愛 -